Diary

2017.12.11

訪日観光客と英語とワタシ

かつて欧米を中心に、しょっちゅう海外に出向いて仕事をしていたおかげで、日常会話レベルの英語力は身についた。クリフとくだらない下ネタで盛り上がりつつ、感謝の意を述べられるくらいには。

でも、別に英語や外国語を「喋れなくてはならない」とか、無闇に「国際化」とかを叫ぶことに違和感を感じなくもない。恐らく日本を含めた多くの国で「英語が共通語」的なよーわからん教育常識がまかり通ってるから、我々はよーわからん義務英語教育を何年か受け、右から左へ受け流していたに過ぎない。「日本人の心は〜」とか、「世界の一員として〜」とか、そんな大それたことを理解できるほど、私の学は高くはない。

しかし、会話力なんてものは何で測るかというとTOEICとか、そういうもんではなく、どれだけ必要に迫られて話さなければいけないか、という場面をどう切り抜けるかでしかない。

私の周りにも、ほぼ英語力は無いにも関わらず、何故か外国人と会話が通じる不思議な人が2人くらいいる。その人たちは、私と日本語で会話をしても、他の人たちよりも「会話」の中で「会話以上のもの」を使うような気がする。

私はその不思議な力を「気配り」と勘違いしていたが、それとは随分違うようだ。

相手の表情や、その場の雰囲気、自分が相手にどのように受け取られているか、などなど、いわゆる「土俵上での所作」を、彼らはしっかりと行っているのではないかと気づいた。

京都駅前は毎日凄まじい混雑である。ただでさえ通勤通学客に加え、遠方からのビジネス客、旅行客でごった返すターミナル駅である。近年のインバウンド需要はうなぎ登りで、多くの外国人旅行者たちが、切符の買い方や行き先確認、バスや地下鉄にどのように乗ればいいのか四苦八苦している。

駅の案内板には英語だけでなく中韓国語表記も増え、インフォメーションカウンターも増えたので、表向きには国際化が進んでいるかのように見える。

バスに乗ると、次の停留所アナウンスも日本語に続いて英語が流れるのだが、どうしたものかと思う。「次は植物園北門前」の後に「The next stop is “Shokubutsuen-Kitamon-Mae”」と放送されるのだ。

“Botanical garden north gate”ではアカンのか?

そしてその直後、地下鉄の乗り換え案内放送が流れる。植物園北門前を出ると、地下鉄駅から少し離れた「(地下鉄)北山駅前」のバス停に着く。日本語が理解できてもちんぷんかんぷんなのだ。

話を戻そう。ある日、JR京都駅八条口で、訪日観光客と思わしきアジア人が、関西空港へ向かうための「特急はるか」の切符はどこでどのように購入すればいいのか、ということを駅員さんに尋ねていた。

残念ながらその駅員さんに英語力はなく、恐らく聞きとれたであろう「はるか」という言葉を聞いて、あっち、あっちと怒声混じりで対応していた。多分勘違いして乗車ホームの案内をしていたのだろう。

駅員さんも混雑対応に追われ必死の形相だ。色々不憫に思い、アジア人観光客に声を掛け、指定を買うならこの券売機では無理で、みどりの窓口に行けとか、はるかのホームは遠いから烏丸口に回って切符買った方がいいよとか教えたら、その観光客は日本語で「ありがとう」と言いその場を離れました。

ドヤ顔もそこそこに、その駅員さんを見てみると、これまた大変申し訳なさそうな、悔しそうな顔をしておられたのが印象的でした。

駅員さんの仕事が何か、鉄道マニアである私は知っているつもりなので、胸が痛みます。

私は2020年の東京オリンピック誘致に伴う様々な施策をよく思っておりません。

誤解を恐れず言うと、なんでも反対する人たちのことも快く思いません。

国際的なイベントを催すときに、いちばん重要なことは、ただひとつだと思っております。それは、スポーツの国際祭典であるオリンピックの場合、「言語や国境を越えるスポーツ交流から生まれる感動」に尽きると思っております。

同時に、多くの国内需要が生まれ、様々な分野の活性化が期待できる(はず)ことと、2011年東日本大地震における様々な災害やその影響をなるべく早期に収束させるための「約束」に近いことを、一国の首相が世界にアナウンスした(はず)ことは、とても大きなことではないでしょうか。まぁ、この話はここまでにします。

話を再び戻して、日本にとって混迷でしかない2010年代をなんとか切り抜け、2020年代に向け、何をやっていくかというところで、経済成長や、かりそめの国際的威厳のようなものがハリボテだ、という風に多くの人が思っているにも関わらず、前述したバスのアナウンスや駅での出来事のような、小市民的出来事にも絶望感を感じてしまうくらいに、各持ち場においての「現場の意識」と「その完成度」に対するリテラシーが欠落しまくっているのが、2010年型の「現場意識」ではないかと思っています。

「格差社会」や「総活躍社会」、「体育会的思考」、「ポリコレ」や「ノスタルジー」…そりゃ、得るものはそれぞれから幾つかはあるでしょう。ただ、危機感を感じるのは、多くの人々が、「何をやればいいかよく分かっていない(みんなそれぞれ頑張ってるのに)」ということではないでしょうか。

私?私ですか?

ええ。周りに流され出すと、すぐ分からなくなります。なので、出来るだけ、自分で考えるようにします。でもそれは、周囲の速度に合わせると無理なのです。何故なら、多くの人たちが無自覚のまま、実態のないものに追われるままに疲弊して、やるべきことがわからず結局なにも生み出せないことを目の当たりにすることが少なくないからです。


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