Shigeru Kishida
Official
Interview

2017.10.17

『シゲイチ』がはじまったきっかけを教えてください。

京都市の交響楽団のマネージャーの方と初めてお会いした時に「30分以上のオーケストラ作品を書いてみませんか」ということでお話をいただきました。劇伴だったり、自分の仕事でオーケストラ楽器を扱ったことは何回かあったので、出来るかもなっていうのと、もともとやりたいことではあったので、「やります」と言って、すぐに書き始めました。

 

もともとオーケストラの作品のために曲を書いた経験は過去にあったんですか

くるりをやる中で管や弦を入れたりすることはありましたし、電子楽器であれ、ギター1本の弾き語りであれ、骨組みの部分にはあったと思います。クラシックの中でも古典音楽の音の積み方や進め方、音響的じゃない部分でカタルシスになっている部分、たとえば、「それをコードにしたらこうなる」とか、くるりでもそのような書き方をしているものは多かったんです。それが本物の楽器になると言ったらおかしいですけど、ギターとかでやっていたものを、オーケストラでやるということです。五線譜で書くということは、くるりではやったことはありましたが、実際にオーケストラのシミュレーションができるソフトウェアがあるらしいということで、それを購入して、あとはやりながらでいいかなと思って始めました。

 

曲の形式に関してのリクエストはあったのでしょうか

30分以上の尺で、オーケストラを使った作品であるということと、いわゆるステレオタイプな現代音楽じゃないものがいいということは言われましたが、それ以上の縛りはなかったですね。それが組曲であっても、交響詩であってもいいとは言われました。交響曲を書いて欲しいとは言われませんでした。

 

では、なぜ交響曲という形式を選んだのでしょうか

それは交響曲が一番ハードルが高いと思ったからです。交響曲っていうものの定義はあってないようなものだと考えている人も作り手の中では多いみたいで、作曲家によっては12楽章くらいまである人もいます。古典でも交響曲は4楽章が定番ですけど、3楽章のものもあります。僕が5楽章にしたのはマーラーの作品で5楽章のものを参考にしたからで、当初は4楽章がいいなと思っていたんですけど、結局7楽章くらい作ってしまって、2つ落として5楽章にしたら、もう落とせへんなってなって。僕はバルトークが好きなんですが、彼の「管弦楽のための協奏曲」のように、第3楽章を軸にシンメトリーになっているような曲がいいなとずっと思っていたので、これもちょっとシンメトリーにしてみようかみたいな感覚で5楽章になりました。

 

交響曲だとソナタ形式みたいな定型もあるって言われてますよね。その辺はどうですか?

ウィキペディアとか音楽の専門書とか見ると、「第一楽章にはソナタ形式の大規模な―」みたいなことが書いてあって、最初は「はぁ、そうですか…」と思っていたんですけど、だんだん作っていくと、そんなん知るかという気持ちになってきて。

書き始めたころは初期衝動もあって、ツイッターとかに投稿するかのように、その日あったいろんな出来事や考えをパパッと書いていくような感じでした。第五楽章の頭の方とかそうです。でも、それだと場面転換も多すぎるし、ラプソディー(※自由奔放な形式で民族的または叙事的な内容を表現した楽曲で、異なる曲調をメドレーのように繋げたりもする)っていうんですかね、ちょっとそういうものになってしまっていて。他の章もそういう書き方をしていた部分が多かったので、ウィーンにいる自分の師匠のような存在、フリップ・フィリップに聴かせたところ、「シゲル、ちょっと待ちなさい」と。「少ないモチーフを使って、それなりの時間で聴かせるものを一回練習で作ったみたらどうだ」と言われて、「痛いとこをついてくるな」と思ったんですが、そこで彼からいくつか面白いアイデアをもらいました。それは少ないモチーフをどう生かすかというときに、時間をどう読むか、倍にするとか半分にするとかだったり、あとは内声になっているものを活かしてみるとか、楽器を入れ替えてみるとか、転調してみるとか、何となく自分のイメージの中でわかっていたことだったんです。

けど「譜面を逆から読む」ってことがそのアイデアの中に入っていて、「はー…」って思いまして。
五線譜じゃなくてMIDIで書いていたので、なんとなくMIDI上で自分が好きな形をしているやつを、全部ひっくり返して再生したら、とても良かったんですね。第四楽章はABAっていうトリオ形式で、Aの内声で使っていたものをひっくり返してBに入れて、それをきれいにシンメトリーにしてっていう感じで図形的な作り方をしたんです。彼にそのデモと譜面を送って聴かせたら、「すごいいい音だ」って言われたんで、ミッションはクリアしたという事で、他は自由に作りました。でも、形式に縛られるということに触れて、第四楽章をそういう風に作ったことがきっかけになって、他の楽章に生きてきた部分もあります。

あと、僕はこれまで音楽の専門的な教育を受けてこなかったんですが、彼がリヒャルト・シュトラウスが書いた「管弦楽法」っていう本が絶対にためになるって薦めてくれたんです。探したところアマゾンの中古で1万5千円もしたので、どうしようかすごく迷いましたが買って読みました。曲を作るというよりは、どこにどういう音を置いていくかということについて参考になりました。

少ないモチーフでどういう風に構築していくかって、僕が15年とか前に夢中になって聴いていたシカゴハウスとか、デトロイトテクノとかの、すごく音数少ないものにどうやって色を付けていって、時間を経過させるかっていうのと、やってみると近い感覚があります。たとえば、拍頭から変わるんじゃなくて、前の2小節からハットの音色が変わったりとか、アクセントが違うものが入ってきたりとかみたいなことですね。僕は放っておくとジャムセッション的な感覚で、曲を作ってしまうんです。どちらかというと、思いついたことを投下していって、混ぜて全体のつじつまを合わせるってやり方をやっていて、この交響曲でもほぼそういうやり方で成り立っているものが多いんですけど、第四楽章だけは割とストイックな作り方をしてますね。

 

第四楽章だけは敢えて制約を入れて、今までの自分のやり方と違う方法で作り込んだわけですね。

そうですね。そこは唯一楽器を使って、最初のモチーフを作ったんですよ。ギターでモチーフを作って、それを譜面にしていきました。ギターで曲を作るってことって、くるりでもあまりしないんですけど、あの楽章は弾いていて楽しかったって言ってくれたプレイヤーの方もいらっしゃったんで、それはそういう作り方したからなのかなと思ったりしました。

 

たとえモチーフだけとはいえ、オーケストラの作曲をギターでっていうのは意外ですね。

ピアノで作られている方が多いですから。僕はこの曲にしても、くるりの曲にしても、脳内にある音を何かに置き替えていくことが多いんです。この曲でも、MIDIのピアノロールに一音ずつ音を置いていって、最初のモチーフになるフレーズを書いてから肉付けしていくこともあるんですけど、だいたい同時進行でトップととボトムを書いているときに内声が浮かぶのでそれをちょっとづつ書いていって、みたいな感じで、やるのがほとんどです。

 

くるりでも『ワルツを踊れ』とかでクラシックっぽい部分が入ってくることはあったんですけど、あれはある種、フロントがいて、そのバックにオーケストラがついているようなものじゃないですか。今回はフロントがいないというか、オーケストラなので全部がフロントみたいな形じゃないですか。作曲への意識は変わりますか?

意識はくるりの曲を作るときとあまり変わりませんが、結果的に歌があって、歌詞があるってところは全然違いますから、くるりの曲はそこが落としどころになっているように聴こえますし、お客さんはそう思うと思うんです。でも、アウトプットが違うだけで、とっかかりは同じで、楽器が違うくらいであまり変わらないですね。

 

その考え方は面白いですね。その「変わらない部分」と「変わった部分」をもう少し詳しく聞かせてもらえますか?

音楽のスタイルというか、ジャンルが違いますから、ある程度、構成とか、響き方は違ってきます。あとは、自分が演奏に参加をしないというのが自分の中ではくるりとは大きく違うので、そこは大きいですよね。いわゆるクラシックと言われているジャンルの中で、パッとこの曲を聴いたときに、下敷きとして想像できるものは中期ロマン派から、近代くらいにかけてのスタイルだと思うんですけど、そういうものの中では第一ヴァイオリン、つまり高い音が絶大な力を持って、メロディーを弾いているっていう印象が薄いと思うんですよね。でも、この曲では主旋律以外のところでヴィオラやファゴット、バスクラ、クラリネットあたりの音域のものをたくさん使っていて、それらは自分の声に近い楽器なんですよね。そういう意味ではこの曲では、音楽を上から下まで積むときに、内声を演奏する人たちに荷重をかけている感じはあります。

 

あとは、ロックバンドとの違いで言えば、このオーケストラにはドラムがいないですよね。ドラマー個人が生み出すエゴも感じるようなグルーヴがないというのは、普段岸田さんがやっている音楽とかなり違うところなのかなと思うのですが。

そこについては僕はちょっと解釈が違います。特殊なグルーヴっていうのはあまり使われない世界なのかなとは思うんですよね。ヴィラ=ロボスっていうブラジルの作曲家の「ブラジル風バッハ」っていう曲があるんですけど、あれはヴィラ=ロボスがこういう風に演奏してほしいといったものをそのまま演奏できたものがないまま死んだって言われているんです。ブラジルのショーロとかサンバの特殊なリズムに関しては、ヨーロッパの古典音楽に記譜法がなかったりとか、実際に聴いたことがなかったりとかしたからだと思うんです。だから、もしかしたら、今、ヴィラ=ロボスが生きていて「ブラジル風バッハ」を今のクラシックの演奏家が演奏したら、思いっきりサンバに寄ったものになったのかもしれないですし、これからはそうなっていくのかもしれないとも思うんですよね。

実は、ドラムセットもクラシックではよく使われていて、室内楽の演奏会とかでも32インチくらいのバスドラムで、ハイハットを叩きながら、スネアを叩いて、「ラデスキー行進曲」とかやっているのもあります。ロックで言うドラムの考え方と違って支配力が必要のない世界なのかもしれません。でも、グルーヴを何で出すかというと、曲によっては低音で出す曲もあるでしょうけど、アンサンブルの中で高い音で出すことが多かったりしますね。クラシックのプレイヤーはやっぱりタイムがいいんで、どういう風にリズムやグルーヴを解釈するかっていうのを指揮者の先生からすごく細かく指示を与えられていて、実際にすごく細かい印象を現場でも受けたので、そのクラシックの人はグルーヴがないとか、ロックやR&Bの人はグルーヴがあるというのは、全然間違った解釈だと思っていて、現場はそういう事はなかったですね。

 

京都市交響楽団はグルーヴを感じるオケだったわけですね

僕がそういう楽曲を書いたわけではないですけど、ここまで出来るんだったら、次はそういう要素を取り入れて書くことを想定するとすごく楽しいかなって思いましたね。今回の曲を書く中で、クラシックの中に今までありそうでなかったアプローチってことはいくつかの部分では意識的にはやっているつもりなんですけど、やってみたいことは他にもあったので。グルーヴっていうちょっとあいまいな言葉を具体化できるテクニックがあるんだったら、次に作るものに使ってみたいと思ってます。

 

このプロジェクトは続いていくわけですね。あと、オーケストラに関して、ある種のエゴみたいなものが現場で出るとしたら、指揮ですよね。指揮者による解釈は譜面を超えた部分があると思いますが、そのあたりはどうでしたか。

それは絶対といえば、絶対ですね。指揮者は大きいですよね。

 

実際に広上淳一さんに自分の曲を指揮をしていただいて、自分が譜面に書いたものと比べて、自分が思っていたものを超えてきたとか、そういう変化は感じましたか?

それの連続でしたね。広上淳一さんって指揮の世界ではかなり個性的な方で、猛獣使いみたいな感じの人でしたけど、背が小さくて、動きが大きくて、よく酒を飲む人です。広上さんは時間の使い方がすごく上手で、それはリハの組み立て方から、テンポの揺らし方とか、この場面でどれを聴かすことにプライオリティーを置くべきかとか、基本的には僕が書いたものをすごく理解をして、いいところを伸ばしていただいた感じです。でも、大きかったのは第四楽章のテンポを自分が指定したテンポから大分動かしたところですね。それは広上さんの意向で、第三楽章はボリュームがあってこってりしていて、メロディーもある楽章なので、それを聴いて疲れてしまった人が第四楽章をまったり聴いていると、退屈に感じるだろうということで、テンポを上げたみたいです。

 

それは大きな変化ですね。広上さんの解釈でテンポが変わったのが顕著だったなというのはどのあたりですか?

第四楽章は全体ですね。第五楽章も変わった印象があって、でも、それは広上さんの解釈で、どういう風な風景を広げていくかとか、どこに重心をおくかとか、譜面ではこう書かれているけど、それを演奏するにはこのテンポでは難しいんじゃないかとか、そういうのもあったとは思いますね。でも、不自然な感じはしていなくて、コンサートの中の第四楽章、4番目の人としていい働きができるいいテンポになったと思います。例えば、くるりでライブをやっているときなら、いろんな曲を演奏して、曲順はその時々で組み替えられるわけですけど、こういう曲はその通りに並ばないといけないので、その流れまでは僕も意識していなかったので、広上さんの解釈を聴いて、「あー、そういうことか」と思って。

 

第三楽章から第四楽章って場面が切り替わった雰囲気があるところですよね。

そうですね、そこでちょっと書いたテンポがぬぼーっとしたテンポだったんで、これは寝るなって。

 

個人的には第三楽章はすごく引っかかるところだったんです。第四楽章は同じモチーフを繰り返し使っている感じがあって、クラシックとしてストイックに作ってるのは感じられると思います。第三楽章に関しては確かに岸田さんが仰るようにこってりしていて。

くるりっぽいかもしれないですね。あれの最初のモチーフは実はだいぶ前から持っていたもので、一回バンドでやってみようって思ったこともあるんですよね。どうも難しくて、やめて。

 

つまり、もともとは歌もあったと。

そうですね。あの楽章は旋律が強いんですけど、もともとそこには歌詞もついていたんです。でも、ボツったんですよね、それをそのまま置いといていたんですけど、このオーケストラの話をいただいた時に、パッと頭の中でその曲が流れて、そのアレンジも頭の中で流れたので、これで行こうと思って、そこから作っていきました。

最初に京響のマネージャーさんから「メロディーのあるものを」と言われたときに、具体的にどういう音かと聞いたら、「何でもいいんですけど、例えば、スメタナの『モルダウ』だったり」って言われて、ああいうちょっと郷愁を感じるメロディーは好きなんで、その話を聞いたときに、第三楽章の主題が出てきたんです。

音楽を聴いたり作ったりするときに、この交響曲とかくるりの普段の曲でも、内声の側にどんどん期待を込めてしまうんですよ。裏旋律だったりとか。ここで言うと第二ヴァイオリンとヴィオラに気持ちが入ってしまう、それをやっていくとどうしても全部旋律で作られて、その中にある人たちが動いて一つの世界を作ってしまう。たとえば、バッハとか、モーツァルトの曲、あるいはプリンスが凝った曲、そういうのって主旋律じゃないものがすべて歌っているから、内声の部分がすごく歌っていて、パズルのように構築をされているわけですよね。そういうものが僕は好きなので、そう作ってしまいがちなんです。もちろんバッハやモーツァルトはしっかり対位法をもとに成り立っていますし、僕とかプリンスのものはもうちょっと違うものだと思うんですけど、そうなってくると、全部メロディーみたいなものなので、絵としてみると、「メロディーどこ?」ってなってしまう。でも、僕はそれが好きなんですよ。ただ、それ以外で好きなのが郷愁を感じる民謡だったりとか、その土地独特の、ダサいけど好きみたいな、そういうメロディーがあるものが好きで、それが「モルダウ」ですよね。僕は民謡だったりとか、「蛍の光」だったり、日本独特の「和」っぽいメロディーだったりとか、地方っぽい独特の節回しだったりとか、そういうものを偏愛しているんですね。モーツァルトでもバルトークでも、さっき言ったような「スメタナ」でも、ドヴォルザークでもそうですけど、民謡を収集していたって言いますよね。僕はそれに近いなって思っていて。

交響曲と同じ日に演奏したくるりの曲を編曲した「Quruliの主題による狂詩曲」も、実際、編曲を始める前にちょっと躊躇した部分が自分の中にあって、Jポップのオーケストラ・アレンジみたいのになっていたらどうしようって思ったんです。でも、やってみたらもともとくるりでも、そういうやり方をずっとやっていたから、すっと初めてすっと終われたんですよね。くるりの曲をオーケストラ楽器に置き替えて書いていったら、そういうものになったんです。だったら、もともとギターやベースやドラムでやっていたから、試さへんかったアイデアを入れ込んで形を変えていったみたいな作り方をしてみたんですよ。

 

今、民謡って仰ってましたけど、第三楽章に関しては日本っぽさも感じたんですよ。例えば、山田耕作だったり、宇野誠一郎だったり、日本の作曲家に関してはどうですか?

日本の作曲家さんを聴き始めたのは、クラシックの人に関しては最近かもしれなくて。もちろん冨田勲さんとか、武満徹さんとか、クールな人は聴いていたんですけど、山田耕作とか、滝廉太郎とか、伊福部さんとか、宇野誠一郎とかは最近ですね。でも、僕にとっては、すぎやまこういちさんの影響が絶大かもしれないですね。ゲーマーやったんで。

 

なるほど。すぎやまこういちさんの音楽もバロックっぽかったり、ロマン派っぽかったりしますもんね。しかし、ポップミュージックの人がクラシック的なサウンドに寄ったときにまずやるのって、現代音楽だったり、原始主義時代のストラヴィンスキーだったり、すごく尖ったところを参照するケースが多いと思うんです。でも、シゲイチに関しては、そういう要素が全くないですね。

ストラヴィンスキーにしても、とらえどころが全然違う時代のストラヴィンスキーですしね。

 

つまり、ストラヴィンスキーで言えば、新古典主義ですよね。あとは、ロマン派とか

近代ですよね。

 

その辺ってクラシックをがっつり聴いているリスナーからしか聞かない名前というか。ロックとか好きな人はなかなか接点がない部分を正面からやっていると思うんですよ

3楽章から作りだしたので吹っ切れたところはあるかもしれないというか。もし変にとんがったところから入ろうとしたら、全然違う作品になってたでしょうし。でも、こういうのが好きなんですよね。お話をくれた、京響のマネージャーの柴田さんが「ステレオタイプの現代音楽は絶対にやめましょう」って仰ったのが大きくて。最初に作るものがそういうものであることは、逆にライバルも多いなと思いましたし、興味はあるけども、自分が身を挺して作りたいかなと言われるとちょっとよくわからない世界でもある。それは例えば、ぼくにとっては古楽を作れと言われているのと同じことだと思うんです。つまり古楽器しか使ってはいけないし、アーティキュレーションが全部タブ譜に書いてあってとか、チューニングが543Hzの435とかでとか、それにしかできない世界で確立されたスタイルがあるというのは憧れではあるんですけども、僕はもうちょっと責任のない立場でその辺を歩いている感覚が主軸になってますから。
それにウィーン古典派、ロマン派っていうのをやっている人もいなくて、自分がそれを作れるわけじゃないけど、自分がちょっとその入れ物の中で泳いでみたらどうなるかって考えたところで、ちょっと面白いかなって思ったし、自然に作ったらそっちの方向に行ってしまう自分もいますしね。そこはちょっと性格俳優的にやらせていただいたところもありますよ。

 

なるほど。

たぶんロマン派ブームはまだ来ていないと思うんですよね。チャイコフスキーやワーグナーとか、そういう掘り甲斐のあるものはみんな興味のある人がみんな掘っていると思うんですけど、ビゼーとか、グリークとかってまだ彫られてない感じがしていて、そこに自分はずっと興味があったというのはありますね。本格交響曲やコンチェルトを作ったわけじゃない劇版作家だった人たちのとても自由な作風で、エモーショナルなメロディーがあったりとか、効率的でミニマルな音の使い方をしていたりするんです。特にグリークですね。「ホルベルク組曲」というのがあって、ノルウェーのフォークっぽいんですよね。スカンジナビアのフォークをバッハが作った室内楽っぽく弦楽だけで演奏するみたいな曲で、子供のころから好きだったんです。僕が昔、子供のころに映画とか見て好きだったジョン・ウィリアムスの派手なメロディーの勇ましい感じとか、ドラクエやってて、新しい大陸に行ったときに音楽変わったみたいな、感じとか、僕はそういうのと並列に聴いていた感覚があって、さっきの郷愁の話じゃないですけど、スタイルが違うってなる前に、そういうのを無効化するような郷愁を感じるメロディーの感覚っていうのが、さっきグリークやビゼーって言いましたけど、グレインジャーみたいな新しい世代の作曲家だったり、古典でもヴェートーベンとか、そういうのは人懐っこいメロディーっていうと語弊がありますけど、土臭い感じっていうんでしょうかね。そういうのが好きなんですよ。

 

あと、ソ連っぽいですよね。社会主義リアリズム系のクラシックの感じはありますよね

なんかね、ソ連っぽくなるんですよね。

 

くるりってバンドだとアメリカのイメージがあるのに、岸田さんのクラシックに関してヨーロッパだし、しかもソ連なんですよね。

そうなんですよね。チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフ、ショスタコビッチ、ストラヴィンスキーのレコードを家で親父がかけていたんですよ。関西なので、ソ連崩壊前まで、TVのコマーシャルやローカルテレビの雰囲気とか、やたらロシアっぽい退廃的な雰囲気があって。パルナスのクリスマスケーキとか知りません?ロシアの「モスクワの味~♪」みたいな子供心にカビが生えそうって思うような暗い感じで、京都市では給食とかもボルシチとかあったんですよ、月に2回くらい。ソ連崩壊とともに姿を消した、かなりあからさまな社会主義的なものの直接的な影響がなぜか関西にはすごく濃厚やって、どうしても取れない感覚なんですよね。

ショスタコビッチとか好きなんで、彼のプロパガンダとして使われたあるいは自分もそれに乗じた、でも全然違う作品では中指立ててるみたいなその感じに興味があって。ロシアは足を踏み入れたことはないですけど、幼少期の記憶が強烈やったんで、世界一美しいところなんじゃないかという憧れみたいなものがあって。チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、ハチャトゥリアンとか、好きな作曲家は沢山いるし、ロシアの映画でも好きなのはあるし、ロシアっぽいところになぜか強烈に引き寄せられている感は、個人的なこととしてありますね。

 

シゲイチを聴きながら、岸田さんが好きそうなクラシックを考えてみたんですけど、やっぱり東欧っぽいんですよね。例えば、スクリャービンとか。

いいですよね、好きですね、スクリャービン。最近はヤナーチェクとか好きですね。ハンガリーのバルトークやチェコのヤナーチェクはジャズ耳でも聴けるというか、その辺の音楽を聴いているときが一番楽しいですね。

 

さっきジャズって話が出ましたけど、たとえば、ドビュッシーとか、フランス近代のものとかって、尖った感じもあるし、そういう部分を自分の音楽に取り入れるミュージシャンは多いと思うし、ジャズとの親和性も高いんですよね。でも、シゲイチはその辺とは違いますよね。あと、調性音楽ど真ん中みたいな雰囲気も特徴だと思うんですよ。

ただ、シンフォニーとか、そういうものを書くときに調性であるということは当然なものとして入りましたね。楽器を演奏するときに自分がただ好きなことをやる時に、どんな楽器でも使えます、何やってもいいですってなったときに無調性音楽は作らないと思うんで、そりゃオーケストラ楽器を使って無調のものをやるなんてもったいないですよ。

 

くるりのファンも含めて、ロックが好きな方もシゲイチを聴くと思うんです。そういうリスナーにとっては、その濁ったり、汚れたりしてない部分と言いますか、毒がない部分に逆に刺激を感じるんじゃないかと思うんですよね。

例えば、ブルースとかと違ってということですよね。そういうものを排除していったわけではないんですけど、当たっているところもいっぱいあるんですけど、基本的には調性音楽っぽく聴こえている部分の割合が多いですね。でも、それも聴く人によっては、俺はすごく調性っぽく書いたんですけど、やっと調性になったって言われたこともありますしね。僕はジャズだったりとか、ジャズも現代ジャズっていうか、今のNYのシーンの人たちであったりとか、今のブラジルのミナスのミュージシャンたちがやっているような、ハファエル・マルチニとかアンドレ・メマーリとか、アントニオ・ロウレイロとか、そういう人たちがやっている音の積み方の感覚にはシンパシーを覚えていて、今一番かっこいいし、自分も安心できる要因でもあるんですよね。特にミナスのミュージシャンは一番肥えた和音を使うし、もともとブラジルってハーモニーが美しい音楽家が多いなと思うんです。クラシック以外の要素で、この曲に何を反映したかったかというと、そこからのインスパイアは大きいですね。喧嘩したとか、怒られたとかではないですけど、現場で一番戦わなければいけない部分はそこでしたね。僕はどうしてもテンションはモードよりはコードで考えてしまいますから、テンションで積むっていうときに、ブラジル的な積み方をした時にきれいなオーケストラの中できれいに配置をしないときれいに鳴らない、っていうことは課題を残したなって思いますけど。

 

そのブラジルからの影響はどの曲で聴けますか?

随所で聴けますよ。第二楽章の最後ヘビメタみたいになるところの前のぼやーっとした部分だったりとか、第三楽章の後半の主題に戻る前だったりとか、5楽章にはふんだんにそういう要素が入ってますし、第四楽章も若干真ん中のドラクエでジパングに行ったみたいなところとかはそういう使い方はしてますね。それはヴィラロボスも含めて、ロウレイロだったりとか、メマーリの影響やと自分では勝手に思っていて、あるいはミルトンとかジスモンチとか、大文字のブラジルのフュージョン音楽ですね。第三楽章のあのこってりした感じじゃない部分としては自分の中で、バルトークと自分を繋ぐものって思うんです。そのバルトークと自分を繋ぐものは二つあって、一方はバッハなのかもしれないけど、反対側はバルトークが晩年いたアメリカの古典のジャズシーンだったりとか、ブラジル音楽だったり、ラテンアメリカの音楽だったりするので、そこは自分の中ではすごく大きい部分だと思います。僕なんてただのよくわからん新人ですけど、彼らにアピールしたいポイントっていうがあるとすれば、大まかにはラテンアメリカの音楽の要素だったりとかはありますよね。

 

そういえば、ミルトン・ナシメント周辺のミナスの音楽って、ミナスは教会が多い場所だから聖歌の影響がすごく強いって話もありますよね。

あるかもしれないですよね。ボードヴィルだったりとか、ファドだったり、歴史ある古典的なスタイルの音楽ってクラシックも含めて、一時代を築いて終わってしまって、古典になると思うんです。でも、その形を再定義することっていうことで、パンチブラザーズがブルーグラスっていう入れ物を使ってとか、そういうこともできる。ブラジルでショーロとかサンバっていうのは常にポップスであるままずっときているから古典音楽になっていないっていう考え方を誰かから聞いたときに、すごい素敵やなとも思ったんですけど、不思議やなとも思って。やっぱり取り入れながらずっと続いているみたいな、そういう出汁のラーメンとかあるじゃないですか、出汁をつぎ足しながらずっと続いているラーメン屋。ブラジル音楽ってそういう感じがしてて、今の教会の話を聞いて、彼らって他からの影響がすぐに出るっていうか、しかも具体的なものとしてしっかり彼らの方程式を通って出るっていうか。僕はミルトン・ナシメントがすごい好きなんですけど、あれはビートルズを聴いたからああなった音楽の典型やと思っていて、彼のビートルズ解釈の異常さっていうのが、僕はすごい好きなんです。ビートルズから入って、ミルトンを好きになって、ジスモンチも好きになって、ジスモンチとかからフュージョンに行って、そのブラジル音楽を字引きにしながら、やっと最近ジャズを聴くようになったんですよね。たとえばトム・ヨークなりジョニー・グリーンウッドなりがチャールス・ミンガスが好きやって言ってた時に、ミンガスとかやっぱり聞いといた方がいいのかなと思って、レディオヘッド耳でブラッド・メルドーを聴くようにミンガスを聴いてみようと思ったら意味が分からんかったんですよね。でも、ブラジル経由だからだとジャズにすっと入れたんですよね。そういう意味で、ヴィラ=ロボスが好きっていうか、尊敬している感覚があって、すぎやまこういちさんも僕にとってはそれと同じなんです。
世界の音楽に対する捉え方っていうのが、アメリカ人的に強固なものを築きあげて、その上で自由なふるまいをするやり方とは真逆というか。サンバが常にポップスであるという事だったり、すぎやまさんがピアノも弾けないのにああいう曲を書いていることに自分は近い気がするんです。すぎやまさんってピアノは全然弾けないらしいんですよね、独学らしいんです。3和音でゲーム音楽を作らなあかんかった時代に、すぎやまさんが12音技法を使って作った「ボスのテーマ」とかを子供らが聴いてるわけですよ。それってダイレクトに世界の音楽が染みたデカいスポンジみたいなものですよね。そういう風に自分もありたいなと思ってますね。結果的にソ連に染みすぎたんですけど(笑)

 

不思議な作品ですよね。柔らかい管の響きが印象的ですしね。

僕は木管が好きなんで、木管のパートはいっぱい書きましたね。

 

尖った感じよりも木管の柔らかい感じが印象として残るし、それがずっときれいだから、逆にそこに戸惑いがあるかなって思いますね、リスナーには。

でも、やっぱり自分の歳もあるんですけど、尖った音楽を聴きたいってことがあまりなくなったんですよね。自分の中で。パンクとかって、通ってこなかったんですけど、もちろん自分の世代のパンキッシュな音楽はたくさん聞きましたし、自分たちもそういうバンドでした。たとえば、僕はラシッド・タハっていう中東のおっさんがそういう尖った人では好きなんですよ。でも、今はなかなか聞けないんですよね、しんどくて。今は聴きたいものがやりたいものっていう風にどんどん近づいていっている部分もあって、それは柔らかい音であるっていう事と、よく見たら全然スタイリッシュじゃないものがどうやったらスタイリッシュに見えるかのちょっとした工夫だったり。

あるいは僕は京都の人なので、京都人的なジャンルの壁に対する感覚と言いますかね、このまえ、養老孟司さんが京都の本を書いていらして、そこで「京都は城壁がない唯一の大きい都市として始まった」っていうことをいっていて、だから「壁を作るんだよ」って言っていて、あーって思いましたけど、それぞれの音楽とか、それぞれの立場に対する壁の意識っていうのが、なんかこうそれを取り払わなけれいけない時もあるし、作らなきゃいけない時もあるし、いま、SNSとかで可視化できたりとか、それが原因で問題が起きたりとか、そういうのを普段何となく自分の生活の中で見ていたりすると、すごくそのスタイル自体とか、その人の生まれた、どういうところで生まれて、どういう人になっているかっていう、誇りっていう以前の状態のこととかを世界各地のいろんな音楽に投影するとわかりやすいと思っているんです。やっぱり実際の生活においてはほんまに実際住んでいる場所の役所に行って、必要な手続きをせなあかったりするんですけど、面倒を見るために何かせんといかんかったりとか、それは何て言うか、尖らないとできないっていうか、ヤンキーが一番強いのはわかっていることで、ヤンキーにならないといけない、でも、音楽や芸術の部分においては、柔らかくないと柔和できない、すっと入り込めないっていうのは自分のやり方としてはあって、硬い音、硬く聞こえるリズム、それがかっこよく響くっていうのはわかるんですけど、いろんなジャンルを溶かす、いろんなものを浸透させて、同じところで共存させるってときには、やわらかいとかわいく泳ぎますよね、って思いますね。

 

やわらかさや調和っていうのは僕の専門のジャズの世界でも、00年代くらいから棘や刺激や硬さよりも、柔らかさやしなやかさ、滑らかさが重視されるようになって、そういうところからジャズが変わり始めたっていうのもあるんです。そこからクラシックに関心を持つ人も増えたし、他のジャンルとも深いところで調和できるようになった。岸田さんの話を聞いてそのことを思い出しました。

メルドーとかが出てきたのはそういう流れですよね。

 

メルドーもブラームスが好きだったり、クラシックを研究しているんですよね。

あぁ、好きそう。わかります。

 

だから、岸田さんがさっきからしている話は、個人的な話としてされてますけど、世界的にもそういう志向を持った音楽家は増えていますし、そういう音楽が求められているのはジャズを聴いていても感じますし、ビョークが教会音楽やバロック音楽を取り入れていたり、レディオヘッドがクラシック的な部分を取り入れていたりするので、もっと大きな流れの中のことって気がしますね。無意識かもしれないけど、シゲイチを作る岸田さんは時代と共振している気がするんですよね。

薄目で見えているものって入ってくるから、今の話を聞いてあぁ、そうかって思いましたね。なんでジャズとかもこういうのは入れて、こういうのは入れないって勝手に思っていたんだろっていうのもたくさんあるんですけど、どっからでもほんまは入れるんだと思うんですけど、シーンの変わり目に出てくるものってやっぱりまぶしく見えるから、そこにどういう風に乗っかるかっていうのは僕の仕事ではないんですけど、そこにふっと入れたときっていうのは、やわらかいところから入れたんやろうなっていう感じはしますね。

Interviewed by 柳樂光隆

一覧ページへ戻る