Diary

2017.10.31

京都市内中心部のホテル建設ラッシュについて

先日、京都市中京区の文化施設「元・立誠小学校」にてイベントに参加し、弾き語り演奏を披露した。1993年に廃校になった同校はその後文化施設として再整備され、地域の顔として20年以上利用されてきたが、宿泊施設として生まれ変わることになり、その役目を果たし終えることとなった。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shino-okamura/20171012-00076836/

市内中心部の木屋町通り、高瀬川沿いという繁華な立地にある立誠小学校は、1980年代から20年ほど続いた市内中心部のドーナツ化による人口減少の煽りを受け廃校になった。

京都市内における人口変動、土地利用は、他の大都市と大きく異なる点がある。

第二次世界大戦中の戦災を免れ、古くからの街並みや歴史遺産が数多く残る京都市内中心部では、世界的にみても厳しい景観条例が事細かく存在する。広告展示物や建築物の形状、色彩(茶色いマクドナルドやローソンなどもそれに従ったものである)など多岐にわたるが、最も影響の大きいものが、建築物の「高さ規制」である。

東京や大阪など他の大都市はもちろん、大概の大きな地方都市において、市内中心部や大きな駅前には必ずと言ってよいほど、高さ100メートルを超える超高層ビルが建ち並ぶ(空港の近い福岡は例外だが)。

京都市内中心部には京都タワーがあるくらいで、京セラ本社ビルや日本電産のビルなど100メートルクラスのビルは郊外の伏見区などに点在するのみである。市内中心部にある京都駅ビルや京都ホテルオークラなどは60メートルクラスで高層建築ではあるが、殆どのビルが45メートル、31メートル、25メートルなど、地域ごとに定められた細かい条例に従って高さが抑えられている。

歴史的建造物として現存する東寺の五重塔は50メートル近くあり、金閣寺付近に存在したと言われている塔は100メートルもの「超高層」塔であったことが分かっている。にも関わらず、何故京都はこれほど「高さ」に厳しいのか。

バブル末期に土地利用の苦肉の策として「総合設計制度」の使用が認められ、公開空地を設けることを前提に高さ規制(あるいは容積率の規制)よりも一段階高い建物を建てることができるようになったので、前述の京都ホテルオークラや、社会保険京都病院など幾つかの建物が高層化された。そのかわり制度に従い、それぞれ広々とした公開空地を設けたものの、仏教会を中心に猛烈な反対運動(当時は古都税を巡る論争もあった)が巻き起こり、その煽りを受けたこともあり、結局60メートルクラスの高層ビルが市内中心部に建つことは京都駅ビル以外にはなかった。

市内中心部(上京区、中京区、下京区)の人口密度は、他の行政区、または他都市の中心部と比べて異様に高くなっていることがデータからもよく分かる。

http://area-info.jpn.org/to21010006260002.html

近年タワーマンションが建ち並ぶ横浜市や大阪市において、中心部の人口密度は上がりつつあるのだが、京都の場合、他都市とは状況が異なる。豊臣秀吉による都市改造以来、職住一体型の街づくりが基本にある京都では、中心部や商業地、繁華街であっても人が多く住んでいる。超高層建築物が少ないぶん、圧迫感を感じることが少ないのだ。古い住宅も数多く残る。

市内中心部であっても通りに出れば山の稜線が見渡せるし、どこからでも空がかなりの面積で見渡せるので、何となく住みやすいのだ。

バブル期、他都市ほどではないにしろ郊外のニュータウンなど、周辺の開発が進んだ京都において、伝統産業であった織物産業の衰退に発端する産業空洞化は中心部の人口空洞化に拍車をかけたと言ってよい。全国的な少子化を待たずに、立誠小学校も、その煽りを受け統廃合された。

時代は流れ、中心部の再開発が進み、空いた土地や老朽化した建物は、条例ギリギリの高さに建てられた45メートルクラスのマンションに姿を変えた。郊外に移った人口が再び中心部に流れ込んだだけではなく、他府県からの若い家族世帯も移り住み、市内中心部は活気を取り戻し、統合した小学校は全国的にも人気のある小学校になった。

しかしその小学校は統廃合して作られたにも関わらず、再び激増した人口を抱えるマンモス校に膨れ上がり、再び分校を建設することになった。そんな状況下、インバウンドによる観光客の増加により、市内中心部の土地利用は大きく方向を転換する。

近年強化された、より厳しい高さ規制により、最高45メートルの地域は31メートル規制まで強化された。つまり、分譲マンション、賃貸マンションでは元が取れなくなったのだ。ホテルなら、ということで雨後の筍のようにホテル建設ラッシュが始まった。

市内中心部では宿泊施設が圧倒的に不足しており、空いた土地にはマンションの代わりにホテルが建つようになった。

しかしながら、近年のホテル建設ラッシュは、景観条例により建てられなくなった「人が住む場所」を「人の泊まる場所」にすげ替えたもの、と言えよう。知り合いの不動産業者曰く「31メートル規制に則って建てた市内中心部のマンションでは、価格が上がり過ぎて買い手がつかず、元が取れない」ので、定住人口が減り、再び市内中心部から市民たちの賑わいが消える日が来るのかも知れない。その代わり「移動人口」つまり観光客が、市内中心部の「顔」になるのかも知れない。

ここには様々な意見もあり、私自身の主観はさておき、長年歴史の続く京都が幾つかの危機(旧くは応仁の乱や明治維新による遷都など)に晒されながらも、市民たちによって、あるいは時の権力者たちによって、なんやかんやと守られ続けている街である。それは幾ばくかの幸運さ、もあろうが、歴史と経験から根付く物事の考え方なのかも知れない。慌てることなく、流れに身を任せながらも、守るものは守り、時代と共にやってくる「大胆な変化」を迎え入れ活用する気風である。


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