Shigeru Kishida
Official
Interview Vol.2 前編

2018.11.16

岸田繁 交響曲第二番を聴くまえに(前編)

インタヴュー・文 青澤隆明

まだ誰も聴いたことのない音楽がある。
たとえば、それは作曲家の頭と心のなかにあって、響き出すときを潜めている。さらに、すでに曲としてはできあがり、演奏を通じて多くの聴き手と共有できる空間に、音として響き出すのを待っている作品もある。
岸田繁の交響曲第二番は、いままさにその領域にあって、広上淳一指揮京都交響楽団によって初演されるときを待っている。もちろん、ただ待っているだけではない。前作第一番同様、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)を用いてMIDIデータで構築された本作は、スコアエディター徳澤青弦の協力で譜面化され、これから演奏用のパート譜に分けられて、オーケストラ団員の手もとへと向かう。初演もひと月ほどに迫る10月終わり、その交響曲第二番について、作曲家岸田繁に話をきいた。
スコアは最終的な仕上がりを目前に控えたところで、その段階の譜面とMIDI音源で作品の骨格にわずかに触れたうえでの対話である。交響曲第二番は、オーケストラ音楽として生命をもって動き出すときにいよいよ向かっている。岸田繁のオーケストラ作品を世界でもっともよく知る指揮者とオーケストラ、広上淳一と京都市交響楽団の信頼のコンビによる12月2日、京都での世界初演、そして4日の名古屋初演がほんとうに待ち遠しい。

■第二番がはじまった

――交響曲第一番から2年がめぐって、第二番がまもなくオーケストラのステージにかかります。第二番の作曲の筆は早く、その意味ではちょっとブラームスを髣髴させますが、実際岸田さんの第一番はブラームスとはまったく違うかたちのシンフォニーでした。むしろくるりの「その線は水平線」のほうがブラームス的な正攻法を感じましたよ。

あぁ、なんかそうですね。むしろね。

――第一番の後、次作の第二番には、大きく分けて二つの道があると想像していました。ひとつは実際に本作が採られたように、古典的なかたちを意識して密度を上げて構成していく方法と、もうひとつはたとえばマーラーのように巨大なものを、あるいは声楽や合唱も含めてつくっていくことで、後者は言ってみれば未来に持ち越されたかたちになりましたが。

そうですね。京都市交響楽団の柴田氏のほうから「第二番はオーケストラのサイズ的にも、時間的にも、ちょっとシェイプ・アップしたもので行きましょう」という話もありまして。一番をつくっていたときに、二番の話をしていただいたので、「わかりました」ということでやってみたんですけど。まぁ、書き出すとやっぱりね、最初に思ったんとは違うものにはなってきて。

――実際には、どのように書き出されたのですか。

とっかかりをどうしようかな、というところはね、これはくるりのときでも、なんのときでもそうなんですけど、どの入口から入るかっていうことはいつもあって。迷ったりすることもあるんですが、まぁ日々、作曲と呼べないくらいのスケッチをしていて、そのモティーフのいくつかのなかから、なんかやってみようかな、ということは考えていたんです。

で、最初にこの4つの楽章のうち、第1楽章と第3楽章を、ピアノの音をつかってスケッチをしていきました。前回もそうですが、ぼくがふだんオーケストラの曲を書くときは、あらかじめオーケストラの音を想定して書いていくんですけども、この二番はまずピアノで弾けるものというか、そういうやりかたをしていって。

――音楽の色彩的な広がりというよりも、まずは骨組みをつくってしまおうということですね。ピアノを弾きながらという、ある意味、古来から作曲家がするやりかたに立ち戻った。

はい、そうです。それをやってみまして、そのオーケストレーションをしていくうちに、第2楽章を書き、終楽章を書いたという手順でやりました。

――なるほど。もし編成に関して初演オーケストラからのリクエストがなく、好きに書いてくださいと言われたら、また趣向は違っていたと思われますか?

発注がなかったら、まずオーケストラの曲を書くことは叶わないと思うので、あれなんですけども。でもやっぱり、ぼくからすると、ギターの弾き語り一本であっても、すごい規模のオーケストラであっても、実際に音楽をつくってる楽しみとしては、あまり変わらないものなんですよね、つくる喜びというのは。だから、「じゃあ3管編成にしますか」って言われたら「イェーイ!」とかなるんですけど、そういうものを与えられても、シンプルなものをつくるかもしれないし。

実際曲をつくるときも、ぼくは曲想を思い描いてから作曲するというよりは、直感的にこれって思ったところから着手していきながらつくっていくほうなんで。まぁ、あとから辻褄を合わせるというか。今回にしても、合唱つきをやりたかったら、なんらかそうしてたかも知れないですし。ただ、ちょっと自分のなかでも、あまり広がりすぎないようにというか、そういうオーケストレーションで曲を書く勉強もしたかったんで、わりと折り目正しくつくっていこうと、最初のほうはしていました。で、第4楽章は、そういうのを全部外してつくった、という感じですけど(笑)。

――ええ、まさしく。第二番は一見古典風の伝統的な4楽章構成の佇まいで、冒頭楽章、緩徐楽章があって、舞曲的な第3楽章が続いて、でも終楽章では異境に入っていくような。先行楽章の回想なども織りなされますが、その後に新しく力強いコーダがやってきます。
第二番のなかみのことは後でききますが、なによりもまず、第一番を書き終えて、自作の交響曲が実際にオーケストラで鳴り響いたのを客席で聴かれたとき、率直な感動も含めて、思われたことはたくさんあるでしょう。少し遡って、第二番の前に、ご自身のなかでどんなことが蠢いていたのかをおきかせいただけますか。

やっぱり思い返すと、天変地異が起こったかのような。わたしのパーソナルな視点では、こんなことがあるのかっていうぐらい、自分の芸術家人生のなかでも衝撃的な出来事だったので、嵐が去っていったっていう感じでして。

ただ、そこで起こった経験とか、そこでやって身についたものというのは、ぼくはロック・バンドをやったりとか、そういうアウトプットを持っているので、なだらかにそういうものを消化して、アウトプットしていったと思うんですね、その後。

で、くるりのほうのアルバム制作を終えて、いざこっちのほうの制作に本腰を入れる段に、第2段階がきたという。まあ、すごく大きな壁でもありますし。自分にとってオーケストラの曲を書くということは、ロック・バンドをやることと、作曲家としては変わらないんですけど、体のつかい方っていうのが全然違う。身体はつかってないけど、作曲しているときの、頭のつかい使い方っていうんですかね、それがもう全然違うんで。そこにフィットさせるのに今回はすごい時間がかかって。それができるまでは、これマジでできんのかなみたいなプレッシャーはあったんですけど、書き出したら、書き出してハマってからは、なんかね、すごく気持ちよくつくることができて。

――先ほどおっしゃった作曲のためのスケッチ、素材のスケッチは、くるり用、オーケストラ用、何用というふうに、頭のなかで鳴っている音によって分けているのですか。

そうですね、最近はもうすっかり分けてると思います、はい。

――縮小とか拡大とかいう単純な話ではないでしょうけれど、ある枠組みを決めて、そのなかでこう力強く、潔くやりきるっていうことに関しては、交響曲第二番と、これに先立つくるりのアルバム『ソングライン』には、交響曲第一番以後の岸田さんの作品として相通じる性格を体現していると思います。くるりのアルバムでも、実験的な音楽趣向をさらに凝らしたものは次作に置いて、今作では歌ものをベースとしたシンプルな枠組みのなかに細やかな意匠を凝らした方向に進まれましたよね。
第一番から第二番の間に起こった、そうした分化というか、キャンバスの大きさを決めること、切り分けや絞りこみをして、かちっとフォーカスしやすくするようにしたことは、この第二番への準備段階として大きなプロセスになったと思われますか?

やっぱり、すごくその影響はあると思います。インプットとアウトプットって、時系列で変わっていくもんなんで。時間が飛ぶことはないというか、時系列で進んで行ってるんで、ほんとおっしゃるとおりだと思います。

――そういう意味で、今作は多楽章に膨張していくのではなく、4楽章の古典的な交響曲のスタイルに一応乗っかるかたちで構成しようと思われた。

はい。あの『ソングライン』っていうアルバム自体が、ビートルズ的な意匠だったり、ちょっとなにかのオマージュだったり、わるく言えばコスプレに近いような楽しみ方っていうんですかね、そういう部分はあると思っていて。

わりと、音楽に対して純粋な原理主義者みたいな部分が、ぼくだったり、くるりのメンバーにはあるんで、なにかを引用したりっていうことはありましたけども、コスプレめいたものっていうのはあんまりよしとしない部分がいままであったんですよね。オリジナルであるべきだ、という思いだったり。

それが『ソングライン』では、これは明らかにミック・ロンソンのコスプレ的なギターだとか、これはもうビートルズの『ハロー・グッバイ』みたいな、みたいなというよりそれ過ぎる感じだったりとか(笑)。それをこう、ちょっと客観的に型に嵌めるというか。そういうやり方をくるりでやったことは初めてというか、ひとつサイド・ブレーキ外したみたいな感じで、わるノリではなくそういうことをやった感覚というのもあって。

で、今回の二番も、たとえば、ワーグナーのトリスタンぽい和声だったりとか、スクリャービンの神秘音みたいなものも、ただ使って、そのような気持ちで、そのようにやるっていう。なんていうんですかね、ナース服着たらそういう気分になった、みたいな(笑)。ちょっとそれぐらいこう、軽いノリでっていうことではないんですけども、よし使ってみよう、みたいな、そういうやり方を結構やってるんですよね。4楽章というのも実は、不思議な拍子ですけども、序奏ぽいところがあって、無理やりテンポ変わってダダダンってしめたあとに、主題が始まるんですけども、そことか実はこう、1拍・1拍・2拍・3拍・5拍・8拍・13拍・21拍みたいな感じで。

――ああ、フィボナッチ数列。バルトーク楽曲にみられるという。

そうです。あんまりぼくはそういうつくり方好きじゃなかったんですけども、「よし、やってみよう」ってやったら、それはそれで面白かったんで。「こういうふうにします!」みたいのはなしに、ただこうアイディアひとつひとつを投下して、ちょっと何々っぽいっていうか、ああここブラームスっぽいですね、ワーグナーっぽいですねっていう、ところどころにそういう石を踏みながらつくっていったっていうか。

■形式のなかで、手探りで

――前作第一番もリズムとか、旋律の身ぶりとか、音型が似てるとかいうところで、過去の作品に連想を誘うものが結構あったと思うんですけど、第二番はもっと和声や拍節構造、あるいは様式、楽章構成という大枠でも、いろいろな書法を採り入れてみたわけですね。そうして武器は増したけど、他人の服を着た感じにはならなかった、全体として聴くと。部分的にはそうだけれども、「岸田繁交響曲第二番」という枠のなかで、木造のなかにそこだけ鉄骨があるような感じではなくて。ちゃんとこう、肌に馴染んだかたちになってると思うんですよね。

それはもう、作曲自体はとても、優雅にいったものでもなく、すごく根詰めて。殺伐とした状況っていうんですかね、自分の仕事部屋に何も置いていないし、なんかこう、ほんまに殺伐と、ただ作業っていう感じで作曲をしていったんですよね。ぼく、そういうのあんまり嫌いじゃないんで。非常に集中して、ストイックにやったというと苦行みたいですけど、なんかすごく気持ちよかったんですよね。ちょっと調子を崩して具合のよくないときにやったので、逆に音楽つくることに救われたというか。「おれ音楽やってなかったらマジやばいな、これ」っていう状況だったんで。

結構そういうときってよくあるんですけど、そういうときにつくるもんて、エネルギーを注ぎ込むとすごく純度が高いわけですよ。なんか遊びがないというか。そういう意味ではすごくこう、自分のなかで会心の仕上がりというか。くるりで言うと『魂のゆくえ』とかそういうアルバムなんですけども、ひたすらこう四角く、殺伐としてやっていくと……

――かちっと、かたちのいいものができる。

はい。かたちがよくて、わりと心がこもってるっていうんですかね。すごくパーソナルな気持ちが、思ったより入ってる。ふだんわりと平穏に、というか、るんるんでつくってるものって、やっぱり遊びが入ってくるから、ちょっと木綿豆腐やなくて絹漉し豆腐のようになってしまってる。ぽろぽろ動いてたら、ぽろぽろ角がとれたりとかしてしまうことが多いんですけど、これは結構がっつりかたちがよくて、決まってる感じにはなったかなぁと。

――第一番のときは、ひょいっていう身のこなしみたいな方向転換で行って止まるみたいな魅力がありましたが、今作はいろいろ起こってはいるんですけど、基本的に前進していきますね。きょろきょろっとした楽しみが前作にはあったと思うんですけど、今回はあまりそういうことをしていなくて、いい意味で緊張感が緩まないで、思いのほか隙間が少なくて、聴いてる側の意志がこう、ぐっと連れて行ってもらえるという感じですね。

そうですね。グリッと。わりとそういうふうに、短期間に集中して作曲したというのもありましたし。まぁ、かたちのないわたしがとりあえず書き終えるには、かたちをしっかりすることというのを、今回はちょっと意識して。間違うてるかも知れんけど、一応かたち、かたち、でやろうと始めました。

第1楽章とかもソナタ形式っていうのにしてみようと思ってやったんですけど。うーん、どうなんやろ、これは。ぐじゃぐじゃってなりましたけど。なんかよくわからないんですよ、ほんまに。

――中間楽章は2つともニ長調で、3部形式っぽくて。最後の楽章は、一応イ短調始まりで……。

イ短調始まりなんですけど、もう、すぐに転調するんで。

――すぐに変わっていくんですよね。なかなか落ち着かなくて。

はい!

――そして、最後は力技でもっていくように。転調して、ニ長調になって。

なんか転調考えるのがたいへんでした。いや、いろいろ試したんですけど、最後に「あ、これかな」みたいな。

――グーッともっていかれますよね。

よかった。

――それともうひとつ、第一番のときはたくさんの素材がクラシック音楽にかぎらない出所から集まった感じがするんですけど、第二番については素材もわりと交響曲的にというか、コンパクトに使われている。冒頭楽章もいくつかの音型をうまく組み合わされてつくられているから、この話の最初に言うべきだったかも知れませんけれども、なにかシンフォニーに寄せてシンフォニーを書かれたなっていう感じがすごくしましたね。

もちろんロマン派にも好きなものがいっぱいあって、ブラームスとかもきれいやなって思うんですけど、でもぼくはたぶんバロックの旋法だったりとか、短いメロディーだったりとか、開放的な感じだったりとか、そういうのがたぶんすごく好きだと思うんです。

――いわゆる”新古典”とか”擬古典”とか言われる表現の方向ですよね。

新古典とか、短い旋法が組み合わさってるものが結構好き。まぁ、好きっていうか、つくってて楽しいのかも知れないですけど、フーガになってるものとか、3楽章とかもちょっとジーグっぽいというか。そういう、舞曲やけど全部フレーズが短いとか、そういうのはつくってて、やっぱ楽しくて。

――たしかにフレーズは短く、簡明ですよね。

フレーズ短いです、はい。長いのはたぶん、ぼくはいわゆるDTM(デスクトップミュージック)で作曲してるからかも知れないんですけど、長い音符書くとなんかサボってるみたいな(笑)。そやから、ついつい詰め込んでこう、早く終わってしまう、みたいなのもあって。

――ところが、前作はこう、スイッチで替わっていくように場面が切り替わったような感じもあったと思いますが、今回は違うんですね。

ああ、そう言われてみると。

――スイッチというのは変な言い方かもしれませんが、映画で言うなら、カットでガッと切り替わるところもあるし、それに加えて今回はもっとディゾルブっぽい繋ぎもある。

わかっていただけて、ほんと、嬉しいです。

――でも、それをやるのはたいへんだったのではないですか?

たとえば、ブラームスの『ハンガリー舞曲』とかふつうにすごく好きで、あの長いメロディーがあって、ああいうシンプルやけど、非常に美しく組み立てられたリズムと、緻密な音と音との関係っていうんですかね。あれができたらすごいいいな、と思うんですけど、なんかこう、ぼくはもうちょっと年をとってからでいいかなと思ってて。

やっぱり、どれだけ和声がきれいな、ロマンティックなものであっても、テンポが緩やかなものであっても、たとえばスティーヴ・ライヒみたいに、短いシークエンスが必ずずっとどこかに時計のようにいてっていうのが、ぼくは結構好きだったりして。だからバロックが好きなのかも知れないんですけど。

――ああ、ダンス・ミュージックってことですね、簡単に言っちゃうと。

ああ、そうです。だからやっぱりクラシックでいうと、やっぱ舞曲ってすごい好きで。ぼくもまだまだ不勉強なんで、どうなったらどうなるかっていうところは、まだ全然できないっていうか、わからないんですけど、目指すところはほんまに細かいフレーズや、いくつかのそれっぽい旋法がフーガのように展開してこう、空のほうにパァーって飛んで行ったりとか。勉強せなあかんけど、フーガってやり方がすごい好きなんですよね。それは、たとえば、バッハを聴いてても、ライヒや、あるいはテクノとか聴いててもそうで。定期的にディレイがかかっていくようなものと、非常に土臭いメロディーを同居させたいという、わがままな欲求がぼくにはあるんですね。

――バッキアーナス・ブラジレイラス(バッハ風でブラジル風)だ、ヴィラ=ロボスの。たとえばね。

そうですね。あれはもう、最高。最高にかっこいいです。

――ほんとうに。いわゆるロマン派の音楽もそうだし、広い意味で歌手が歌う民謡以外の音楽で、主情的なものって、とかく記名性が高いじゃないですか。それが、民謡をベースにしたものだったり、ルーツものだったり、あるいはバロック以前になると……

誰がつくったものかわからない。

――そう、オリジナリティというものが下がってきますよね。で、主情的でロマンティックなものというか、自我の強いもの、オレオレものに対する距離感というのが、どうにも居心地がわるくて、ダンス・ミュージックもつまるところ、誰のものでもよくなる音楽になっていくと思うんですよ。もちろん、いわゆる匿名的、無意識的、宇宙の理みたいな方向と、こっちの自己表現にみたいなものとのバランスのとりかたはなかなか難しいところだと思いますけれど。そこで、なにが言いたいかと言うと、シンフォニーというのも、そのシステム自体は個人的なものではない良さというのがあるのではないかと。

そうですね。

――ロックというフォーマットにしてもそうだし。様式観というのか。

結局そこでやっとんのよね、っていうところで、そうですね。

――様式を採ったほうが、かえって自由度が高くて、そのなかでのほうが遊びやすいというか。

そう、そうなんですよ、規則があるほうが。そこを破るのが楽しかったりもしますし。

――なんかこう、照れてるわけではないのに、恥ずかしさがないっていうのはいいですね。

ああ、そうですね。ありがとうございます。いや、第1楽章の冒頭から、恥ずかしい感じがしますけど(笑)。

――でも、すぐに落とすじゃないですか。

落とします落とします、はい。

――その落としで、恥ずかしさがこう、宙に浮いちゃうというか。

そうですね。あのへんで恥ずかしくなってもうやめてるっていう。

――でも素早いですよ、恥ずかしがりが。

恥ずかしがりが早いですか。

――勇ましがって出ていったのに、いきなりずっこけちゃったみたいな感じで。

いや、だからもっとワーグナーみたいに、その恥ずかしげもなくどこまでも行く感じっていうのは、ぼくは絶対できないんって思うんですよね。だからこそ、ロックだとU2とかには絶対なれないですし、逆に憧れはあるっていうか。

でも、旋律作家としてのベートーヴェンとか、ドヴォルジャークとか、ああいう人たちは、もしかしたらモーツァルトとかもそうなんかもしれないんですけど、ぼくのなかでは民謡に近いっていうか、モティーフもそういうもん多そうな気もしますし。でも、ワーグナーとか、ブラームスとかは、もっとパーソナルなメロディー感覚っていうふうにぼくは捉えていて。

今回ちょっとした感情の部分と、ポージングの部分っていうんですかね、自分に酔う部分みたいな、そこのバランスは結構いい感じでとれた部分もあるというか。一番はそういうことを無視して垂れ流してましたけど、なんか今回の第2楽章というのは、ぼくは結構うまく書けたというふうに思ってて。メロディーが、自分で言うのもあれですが、すごく好きで。

――いや、ほんとうにいいですよ。ぼくも好きです。

やっぱり、どんな音楽でもそうですけど、ひとつの映画のように、あるいは映画のワンシーンのように、見たことのないところが想像できるのがいいなと思ってて。2楽章とか3楽章は、ちょっとそういう、なにかっぽいかたちを借りて。ちょっとスラヴ風だったりとか、あるいはバロック風だったりとか、そういうのがあるなかで、どこかの町でちょっと腰を下ろして、こう、ふっとタバコに火をつけて風に吹かれてるみたいな感じを、うまく表現できたような気がぼくはしていて。細かいな、すいません(笑)、勝手にそんな気がしてるだけなんですけど。

――はい。フレーズは短いし、くり返されるのですけれど、そのたびに……。

くり返しを結構するんですけど、くり返すときは、いわゆる主旋律はあいまいになっていく、内声が過剰になったり、別な要素をなにか悪戯をするようにはしているんで。ただくり返すだけだと、やっぱ飽きちゃうんですよね。メロディーが長いとうまく展開しますけど。ちょっとこう、さっきフーガの話もしましたけど、立体的につくっていくっていうか。くるりでもよくやりますけど、バスだけ変わるとか、なんかがなくなるとか、拍が入ってくるとか、そういう小賢しい変化を(笑)。

後編へ続く

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