岸田繁 交響曲第二番を聴くまえに(後編)
インタヴュー・文 青澤隆明
■交響曲第二番の楽曲構成
――第二番の楽章構成は、最初から古典的な交響曲をモデルにして、中間楽章は緩徐楽章と、メヌエットかスケルツォという感じをはっきりもっていたのですか。
最初はやっぱり、あんまり奇を衒わずにやりたいんで、この枠のなかでやれればなぁと思っていて。第1楽章として書き始めたものを終楽章にするか、第1楽章としておくか、というぐらいの適当さはもって書き始めましたけど。でも、第3楽章の音楽を書いた時点で、あぁ緩徐楽章を書かないとって思って。
――第1楽章の音の身振りは、けっこう第一番のコンパクト版みたいな感じもしました。
そうですね。
――いっぽう第2、第3楽章は、「シチリア舞曲」などで採っていたバロック風な方向で。
ぼくが好きなほうです。より個人的にすごく楽しく作曲をした。というか、書くのに時間もかからなかったですし。
――ですが、その後、終楽章はあたりまえに収めるのを嫌っていますね。
そうですね。ぼくはこういうこと断定するのもあんまり好きじゃないんですけど、もしこのシンフォニー二番にコンセプトがあるとしたら、ひとりの人間がわりとこう、当人にとってはふつうに過ごしてて、でもなんらかやっぱり自分が老いたとか、なんかが起こったとか、ターニングポイントにきて、なにかを背負わなあかんかったり、なにかを下ろさなあかんかったりとか、そういうことが起こったときに、どのように崩れていって、あるいはどのように嘘をついて平静を装って、とか。
で、その後の、やっぱり当然訪れる苦しみとか悲しみとかがあって。第2楽章は非常に悲しい。悲しいけど、やっぱり本当に悲しくなったら人は優しくなれるとぼくは思っていて。本当はだから、第3楽章でデトックスが終わってすっきりした感じがしとるんです。でも、トリオの部分は旋律が1、2、3の順により悲しくなっていきますよね。その1、2、3でひとりの人間の、起こったことと心情の変化の流れがあると思う。だから、ほんとうは3楽章で完結してる話やとぼくは思っているんですけど。でも、敢えてコーダをかなりあっさりして、
で、次の4楽章はその後の世界。っていうと、まぁ、とても簡単であいまいな言い方になってしまうんですけど。ひとりの人の美しかったりとか、ちょっとドラマチックやったりする心の動きっていうのと、まったく別の位相のところにある。ほんまに、森のなかのダンゴムシとかですね、パラレルワールドのようなことが現実で、その社会で起こってたりとか。ちょっとよりワイルドで、野生のまんまの状況だったりとか。ひとりがこう思い悩んだりとかして、閉じた状態で人と自分と向き合ってる状態から、いきなりポーンとこう、武蔵小杉とかに連れてこられて「はいどうぞー!」って言われたような(笑)。なんていうんですかね、それくらいのエキセントリックさをちょっともたせたかったんですよ、なんか物語を内面の話だけで終わらすよりも、そうでなくて、エンドロールが終わったあとのほうが、わけわからんもんが始まってたみたいな。
――終楽章は内容的にはスケルツォっぽいですしね。
そうです。そうです。なかみはね。実際に楽譜に「スケルツァンド」って書いてますし(笑)。
なんかぼくはそういう意味では、もちろん『第九』も『新世界』も大好きですし、みんなが大好きな終楽章って、ほんまに心から好きなんですけれど、現代の2018年に、古い容れ物を借りるにしても、なんらかのまとまった作品を出すとしたら、ぼくがやっぱ表現したかったのは、ちょっと混沌は描きたかったということはあって。現代的な混沌っていうんですかね、それをネガティヴにというよりは、そのまま、誰かにとってのそのままを描きたかった。っていうか、自分にとってのそのままを、ではあるんですけど。
――否定も肯定もしない……。
そうですね、まあ、している暇もないくらい。たとえばSNSのタイムラインだったりとか
駅前のショッピング・モールだったりとか、あるいは次から次にくる台風だったりとか。実際これを仕上げたのはもう台風のなかで書いたんですけど(笑)、そういうのも影響したと思います。
なんかその、ふだん非常にシンプルな生活をしているんですね、わたしは。最近はとくに、京都に居を移してからはとくにそうなんですけれど、たまにしか自分のあんまりしない行動というのはしないようになったんですよね。毎日おんなじようなことしているから、それもけっこう影響してるのかなと思うんですけれど。
こないだ「ひらかたパーク」に行ったんですけど、なんか遊園地に行っただけで、もう海外旅行に行ったくらいインスパイアがあるんですよ(笑)。それぐらいね、なんかいま、自分を四角い枠に入れてるって言うと、この交響曲の話みたいですけれど。なにかに縛りつけてるというとネガティヴな言い方になるんですけど、枠から逸れないようにやっていて。で、ぼくはそういう生き方をいままであんまりしてこなかったんで、そうするとすごくこう、つくる曲も四角くなってくるというか。いい意味もわるい意味もあると思うんですけれど、四角くなってくるとできることっていうのも、どんどん増えてきて。
だけど、この終楽章だけは、もういきなり、どっかにドーンと落とした状態で、っていう。いわゆる切断、分断っていうのかな。1楽章があって、2楽章、3楽章にあるもんと、これは明らかに違う。だから、違う曲でもいいようなもんかもしれないんですけれど、自分のなかでは、突然目が覚めたらここにいた、っていう状況っていうんですかね。いまっぽいところで言うと、たとえば携帯ばっかさわっとる生活からすると、1日携帯がないと生きかたが違うと思う。まったく位相が違ったりとか、あるいはほんとにこう、なにもないとこからすごいとこに放り込まれて、自分を失くしてしまったというか。自分を失くしてしまうほど忙しくて、翻弄されたりとか。
――それが終楽章の幕開けのティンパニなんですね。
「武蔵小杉ー!」みたいな(笑)。でも、あれって、不謹慎な言い方したら、災害とかなんかかもしれないですし。なんか大安売りのセールが突然始まったのかもしれんし。
そっからまあ、速い音符で行って、テンポが途中で変わりますから。テンポもそれまでの2分音符を付点4分で読んだら、♩=120が160とかになるので、そういう書き方をぼくはしてて。これは、ぼくらもバンドで演奏してたりしてテンポ変えるときに、まあ2拍3連とか、3拍4連で、そういうリズムの変え方ってたまにするときあるんですけど、そういう意味ではぜんぜんクラシックぽくない、時間のとり方って言うんですかね。
とにかく、この第 4楽章は現代的なものがよかったんですよ。現代音楽じゃない、現代的なものというのが。トラップとか、そういうのがよかったんです。音符が細かくて、テンポがそんなに遅くはないんですけど、旋律に対しては拍が遅れて行って、長いので音が細かく入っていく感じになっているんで。言わなあかんことをだらだら引き延ばして言ってるみたなのに、細かい三連系の装飾音符がタラタラタランタタタタタとか入ってるのって、「ああ、これってトラップやな」とか思って(笑)。クラシックじゃない、しかも流行りの音楽っていう、自分のなかでちょっとそういうことを考えながらつくってましたね。
■フィナーレの困難
――終楽章では、その3連符が多用されるコーダの前に、スケルツァンドになって、わりと半音階的にほどけるんですよね。
そこは、フィボナッチ数列になぞらえて、てきとうにメロディーつくっていったんですけど、ぼくはすごくその数列ってよくできてるなあと思いました。ぜんぜんつくるのに時間かかんなかったです。この作曲作業のなかで、いちばん流麗にメロディーを書いていきました(笑)、スケルツァンドのところは。
それがすごくなにかに似てる、っていうか、ほんまにすごく抽象的な話で申し訳ないんですけれど、近所のショッピングセンターで気を抜いててるときみたいな。なんかビブレとかジャージで行って、鼻くそほじってるみたいな。明らかにいろんなこう、なんか大雨降っていたりとか、なんかがごちゃごちゃしてたりとか、電話がすごいかかってきてたりとか、そういうことが起こっているなかで。でも、そういう意味では、単純に1楽章から3楽章まで真面目にやってきた人の精神の解放かも知れないです。
――これまで真面目にやってきた人の(笑)。
そう、急に解放しすぎやろ、みたいな(笑)、そういう意味では。
――とすると、その後の、コーダの突然に力強いアレグロ・コン・ブリオは?
あれはね、いっぱい試したんですよ、実は。ほかにもいろいろなのがあって、もう一回主題に戻ったりとか……。
――なんか終わる気満々ですよね。
終る気満々なんです(笑)。そうなんですよ、「蛍の光」かかってるよ、みたいな。どうやって終わるかって言うのは、この作曲のなかでも15通りぐらい、いろいろ試したんですね。ほんまにいろいろ試したんですけど、なんか悲しく終わりたくなかった。だって、ここまで、なんか……。
――さんざん悲しみましたものね。
そう、さんざん悲しんだうえに、鼻で風船ふくらましたりとか、なんか逆立ちして歩いたりとかやっているのに、哲学的に終わるのもなんか違うと思って。すごい乱暴な話ですけれど、第1楽章から、この変な終楽章まで、まったく出てきてない要素というか、そこまでに出てこなかった気持ちのものに完全にもっていかれるっていうか。なんかそういう感じ。リレーで足の早い子にすごい抜かされてったりとか。
――ちょっと暴力的な感じですね。
暴力的なほうが、この楽章にいいかと思って。
――最後にもっていったこれはなんだったんだろう? 盛り上がって過ぎていくんだけど、でも、自分の気持ちとはちょっと思いづらいですよね。
そうです。だから、自分の気持ちとして、たぶん終われない。なんか、うわってなって、うわって終わった、という。
――ちょっとショスタコーヴィチぽい感じがしたんですよ、その終わり方のやり口は(笑)。
はいはいはい。あぁ、ちょっとそういうところはあると思います。
――結果的には、他動的な終わり方、と言うと変かも知れませんけれど。
そうです。
――しかも自分のなかにはないもので、ぐーっと走って、しかもそれはわりと勝ちパターンに乗って走ってるんですよ。
なんかAIの時代かわからないですれど、自動運転とか、とにかくそういうイマジネーションがこの楽章には、自分が展開を思いつくときって、そういう絵というかムードがたくさんありました。1楽章から3楽章までっていうのはむしろムードだったり、感情だったりでつくっていったんですけど、とにかくこの4楽章は……。
――モード、ですか。
そう、モードですね。
――なるほど。ちょっと振り落とされちゃったようで、謎が残っていたのですけれど。
謎だと思います。だから、楽しみでもあるんですよね。確実になんかが爆発を起こす実験とも言えると思うので。
――終楽章でコーダにいたるその道行きは、コンサートに行って生で聴いたときに、なにかがわかる、みえてくるかも知れない、と期待していたところでした。しかし、全曲の結びに異質なものを書かれようとしたのには、そのような深い理由があったのですね。
いや、すごい迷ったんです。すべてを総括するというか、実際1楽章から3楽章までの主題をちょこちょこ挿んだりとか、そういう小賢しいことはコーダの前にやってるんですけど。でも、コーダの部分は、バアーッてなってんやけど、自分は寝巻を着ている感覚っていうんですかね(笑)。なんか「さあ行くぞー!」ってまわりはなんなってんけど、自分は寝巻を着ていたみたいな(笑)。そういうのって、なんて言うんやろ? だから、ほんまにやったらあかんことやってる感じがするんですよね。なにか自分の気持ちを出すというよりも、直観で感じたこの景色を描いてみようみたいなのが、まぁ、こういうふうになってしまう(笑)。
――本番でどう聴こえるか、楽しみですけれど、難しいですね。
難しい、と思います。でも、なんかやっぱり、暖簾をくぐる感じというか、地下鉄がずっと地下走ってるけど、地上にばーんと出て景色がみえた感じとか。なんか目が覚める感じということ自体が自分の主体であるかのような表現が、ぼくには多い気がしていて。そういうのに対して、こういうふうな構成をつくったのかも知れないですし。
――目が覚めるということが自分の主体、なるほどね。
ええ、ほんまに。たとえば、自分自身が魔物になっていることに対して、それを否定するのは勇気だとぼくは思っていて。誰でもそういうことっていうのはあると思うし、ぼくでもありますし、自分で自分の許容量を超えたことをやろうとしてしまったときに、ピエロになってでもいいから断絶して客観視する、でもなにかを気にしている、っていうふうにぼくは生きていたいと最近は思っていて。まあ”Keep cool, but care.”って言いますかね。で、そういう姿勢のない主体の主観というのは、大きくなにかを引き寄せて全体の正義を支配する。で、それがあたりまえかのように閉じこもって外に出ないみたいな。
それに対する違和感だけはあるけれど、そういうことってなかなか表では言えない気持ちで、ならば自分がどういうことをやるかというと、もちろんくるりはひとつの色眼鏡でもみられ続けてここにきて、やりたいことを許してもらえた存在だと思っているので、ああいうかたちで。で、こういう、いま自分が思っていることを表現できる作曲の場合だと、やっぱりなにかに中指を立てると言ったらかっこつけた言い方かもしれないですけれど、なにかに対する違和感にすごく自分は突き動かされているというかな、なんかね。
――いま交響曲を書くということ。岸田さん個人にとってもそうですけれど、2018年に交響曲というかたちをとって書くということから、こうした構成ができてきたとして、それは書き進めるなかでできていくということと、もともと考えかたとしてあったというのと、そのあたりは、どのようにできていったのですか。今回は、かたちから?
もちろん、かたちから考えたんですけど、第1、第2、第3楽章というのは、ほんとに素直に自分の気持ちとか状態とか、音楽の趣味がわりと素直に出て。いや、第1楽章はともかくやけど。1楽章はとにかく現在から過去のニュアンスというか、前回までの話みたいな、過去自分は基本的にこういう人でした、こういうふうに人格形成されました、みたいな部分の話だと思うんで、そこはさておき。第2楽章と第3楽章、言うたらコンパクトな構造をしている楽章というのは、ムードとか気持ち、気分、に対してすごい明解で、ダイレクトだと思います。だから、かたちのいいうんこがすっと出たみたいな感じがしますし。第4楽章に関してはこういうものをつくるとは思ってなかったので、ぼくも最初は。第2楽章ができて、第1、第2、第3楽章とできた段階で、さあ第4、と思ったときに。
――別の軸が出てきた……。
そうですね、別の軸というか、書いた時期的にも、作業の流れ的にも、同じ人間がそのタイムラインに沿って書いてるんで、自分のなかでは続きは続きなんですけど。やっぱこう視点を変えてみましたよね。で、戻りそうになると、ちょっとこう弦楽四重奏になる部分とか途中であるんですけれど、そういう部分はモノローグというかフィルターがかっているんですけど、すぐに否定するというんですかね。済んでしまったスケジュールが網かかってるみたいな、ちょっとそういうふうに、これまでの非常に個人的で内心的なものに引っ張られませんっていう。
もしかして、さっきとショッピング・モールって言いましたけど、自分は透明人間のようになって(笑)、そのショッピング・モールをずうっと鼻をほじって歩いてるような、みえ方だったり、自分の出し方だったりを、第4楽章でしているのかもしれないなぁ。無理矢理説明をするとそういう感じでしょうか。もちろん、それまでのひたむきさと、温度感はぜんぜん違うので、そこでの違和感というのはわかりにくい部分かもしれないですけれど。
――でも、あの人が透明になっているということですよね。つまり、ああいうことができる、ああいうことがやれる人がここへきて透明になっている。最初から透明なわけじゃない。
そうです。でも、着ぐるみなんて着たら、すぐにアンパンマンになれるんですよ、人なんて、っていう。いいんですかね、こんななんか、わかりにくい話で(笑)。
――もちろんです。第一番のときはまったく真っ白の状態で初演を聴いたのですが、第二番についてはこうして、オーケストラで実際に音が鳴るまえにお話をうかがったのでなにか奇妙な感じもありますし、少し先走った気もしますが、とにかくますます初演が楽しみになってきました。また演奏会で一所懸命聴いてみて、いろいろと考えてみたいと思います。
ぼくも広上先生と京響のみなさんが、どういうふうに音にしてくれるか、自分自身楽しみですし、また聴いてくださる方がどんなふうに感じられるか、とても楽しみなんです。